庭にあるリンゴの花が咲いた。
ちょうど10年前の今ごろ、母がこの家に移り住んだ。そのとき記念に植えた木。
母は1934年生まれ、86歳まで生きた。
認知症が進んでも繰り返し語っていた話の一つに、疎開先長野のリンゴの話がある。
小5のとき、戦火から逃れて、長野県のあるお寺に疎開した。
はじめみんな遠足気分でいた。
地獄谷の温泉で猿が湯につかっていた。
近くにはリンゴの木がたくさんあった。
りんごの花。白い花びらにうっすら紅がさす、可憐な花。
小さい子がうっかり花をとらないように、大きい人たちは厳しかった。
食料がなくなっていって、食べ物でよくケンカがあった。ケンカしないように目隠ししてリンゴを分け合った。
ふっくらした子たちもすっかり痩せて、皮膚の色が黒ずんでいった。
わずかな食べ物も、子どもたちはガツガツ一気に食べてしまった。
母は、人より先に食べ終わってひもじくなるのが嫌で、ちまちま食べて、他の子が食べ終わっても、ひたすら噛んで噛んで、味がなくなってもまだ噛んで食べた。
そのおかげか、一人だけ栄養失調にならなかった。
他の子たちは皆起き上がれないほど栄養失調になって、東京にいる親たちが「子どもたちを返せ」と大騒ぎになった。
長い汽車旅をして上野につくと、学友のお父さんが大八車に子どもたちを分散して乗せて竹ノ塚まで帰った。
東京に戻ってからのことでは、焼夷弾の音が怖かったのと、すぐ近くが燃えていたのを憶えていた。それが東京大空襲のときなのかどうかは私には分からない。
そのあと、よく分からないまま玉音放送に大人たちが騒いで、よく分からないまま教科書を黒々と墨で塗って、よく分からないまま地主のお嬢様ではなくなった。
半世紀たったころからか、戦争のことをことさら知りたがって、新聞をスクラップしたりVHSビデオにNHKスペシャルなどを録画していた。
その割に、ちょっとむずかしい話になると、すぐに眠ってしまった。
代わりに私が観ていた。
