ゲルニカのある森

 ピカソは、ゲルニカの原版(1937年発表)が朽ちてしまうので、3つのレプリカを作った。

そのレプリカ3つは、国連本部と、フランス・アルザス地方の美術館、そして 群馬の高崎市にある

――ということを私はこの日知った。


5月の爽やかな日曜日。
県立群馬の森でのフィールドワークに参加した。

7人の大人と、ハリーポッターのような高校生がいた。



東京ドーム6個分、ディズニーランド2個分の緑豊かなこの公園は、かつて火薬製造所だった。
今も公園の隅に、当時の建物などがずらりと残っている。


ここでは、日露戦争のとき国内初のダイナマイトが製造され、工場の規模が拡大していった。
日中戦争が始まると、昼夜の増産体制で操業した。
分工場では、動員された十代の少女たちが、小川和紙をつかった風船爆弾の製造に従事した。


熟練工が兵隊にとられ未経験者が増加し、爆発事故が多発して多くの犠牲者が出た。
爆発時の爆風を逃がすため、建物の天井はトタンをかけただけ。 建物の周囲は、爆風の影響をおさえるために、長い土塁が巡らされている。 土塁は、人の背丈よりもっと高くて、シラカシという樹が植わっている。防風林は松だとばかり思っていたけれど、松は燃えてしまうのでシラカシなのだそうだ。



ガイドのKさんは、理科の先生なのかな?
Kさんは、木や虫について興味深い話も交えながら語ってくれた。
高い木の上に、緑のボールのようなものがたくさん乗っていた。
これはヤドリギ。 宿主の樹に寄生する植物なのだそうだ。(宮沢賢治『水仙月の四日』にも登場する。)
Kさんの植物の話は興味深くて、漫画『君と宇宙と歩くために。』で星を語る天文部顧問の先生が思い出された。


この公園には、戦時中に群馬県に動員されて亡くなった朝鮮人労働者を追悼するための追悼碑が「あった」。

2004年に建立されたが、2024年に撤去された。
追悼式での「強制連行」という発言が「政治的行為」にあたるかをめぐって論争になり、裁判のすえ撤去が決行されたのだった。

かつて日本が植民地支配していた朝鮮から動員された人たちが群馬県にもいた。 その歴史を掘り起こした市民たちが、犠牲になった人たちを追悼するために、県議会全党派が賛同してこの県有地にこの碑を建立した。

碑には、「記憶、反省、そして友好」と刻まれていた。 一度実物を見たことがあるが、高い柱と絵画があって、鏡のように光っていたのを覚えている。

2024年1月、広大なこの公園は閉鎖されて、厳重態勢の下、重機でこの碑は撤去された。


戦時、「うまい話」にのって来たものの粗末な食事しか与えられず、逃げることもできず労働に従事した朝鮮人たちがいた。 群馬県では、中之条町の六合鉱山や安中市の地下工場、高崎の鉄道工事などにいたことが確認されている。 終戦後、日本国籍ではないため補償をうけることもできず、苦しい過去を語ることも難しかった。
追悼碑はそうした歴史を忘れず、犠牲となった人たちを悼む目的で建てられた。



碑が撤去されたあと、土の地面だけになった。

でも、追悼碑が今も見える。

QRコードにスマホをかざして読み込むと、追悼碑が画面にあらわれた。
画面から目をそらすと、そこはただの地面。
どこかの大学の工学部の先生が発明してくれたという。

手を合わせたのち、バーチャルな碑の前に集合して写真をとった。




この話、「ハイテクすごいー!」で終わってはならない。

日本が国策として朝鮮や中国などの人々に与えた加害の事実がある。
これをなかったことにして明るい未来があると私は思えないし、 伝え残さないと次の世代は知らないままとなる。
じゃあずっと誰かを断罪したり謝り続けなければということではなく、
こんな悲しい事があったということを知って、友好関係を築いていくのが、


みんなにとって幸せにつながることなんじゃないかな。



ピカソのゲルニカを擁する森である。

たくさんの樹木、虫や動物たち、そして、大砲や鉄砲の弾をつくっていた工場の廃屋、朝鮮人労働者を追悼する碑、公園で遊ぶ子どもたちの声…
そのどれもが、この公園の宝であり、未来への道しるべなのではないかな。

ガイドのKさん、フィールドワークに参加された皆さん、どうもありがとうございました。


ヤドリギ(Adobestockより)

 



群馬県立美術館のゲルニカ(上毛新聞電子版2021/7/9より)



    
遊歩道に面した土塁を越えると、このような廃屋が連なって残っている。